夢の内にも      中編



「ふう・・・」

部屋と濡れ縁の境に座り込み、うっすらと月明かりに浮かび上がる庭を
眺めていたセイが、物憂げな溜息を落とした。
姉である一の姫が夫として迎えた男は陸奥の国司を拝命していて経済力があり、
父亡き後の頼りなき身の上の姉妹とその母を細やかに気遣ってくれた。
本来であれば荒れてしまったであろうこの庭も、その男のおかげでこうして
父や兄がいた頃と変わらぬ姿を維持していられる。
けれどどれほど優しく懐深い男が自分達を庇護してくれようとも、
セイの心は穏やかになれずにいた。

“先の典薬助、藤原玄馬殿の不審な死”

薬師だというあの禿頭の男は確かにそう言った。
そして房良と一もそれを前提として話をしていた。

やはり、と思う。
父の遺骸は家司達によって自分達女子の目に触れる事はないまま葬られた。
急な病で、と幾度繰り返されようと違和感を拭う事ができずにいた
自分の考えは間違っていなかったのだ。
自分達家族以外の人間の方がよほど事情に通じているらしい事が
何よりもセイには許せない。
邸に仕える女房達の言葉の端々からそれを察したからこそ、世間で自分の
悪評が立つ事も厭わず世情の噂を拾い集めに外へと飛び出していた。

だというのに。
父や兄の庇護の元、狭い邸内で過ごしてきた世間知らずの自分だけでは、
何ができるはずもないと身に沁みただけだった。
闇に紛れて邸を抜け出そうとも、そんな刻限に真っ当な者が
出歩いているばすもなく、当ても無く町をうろついているうちに
夜盗と鉢合わせし、あわや攫われかけた所で助けられたのだ。
あの風変わりな男に。

「はぁぁぁ・・・」

細長を纏い、軽く寄りかかっていた脇息にがっくりと顔を伏せた。
大好きな兄と父を奪った者を突き止めようと勇んでいた自分の滑稽さに
溜息しか出てこない。
一や房良のような知識も行動力も自分には無いのだから。
悔しさか、情けなさか、じんわりと目元に熱が集まってきた。

――― くいくい

ふと、袖を引かれてそちらに眼を向けると小さな白猫がセイの袖を銜えている。
ぽうっと仄かに輝く様子がその存在が現の者で無い事を知らしめた。
けれど幼少の頃からこの白猫の存在に慣れていたセイは驚きもせずに
その頭をそっと撫でる。

「どうしたの?」

セイの袖を離した白猫が庭の桜の木へと視線を向けた。

「おやおや。深窓の姫君がそのように御簾の内にも籠らず端近に出るなど、
 随分と無用心な事ですね。朧な月影を見上げて憂うる姿は大層心惹かれる
 麗しさですが、気をつけねば悪戯な夜風に攫われてしまいますよ?」

木の影から現れた男を見てセイが口元に手を当てた。
驚いたはずみで飛び出しかけた悲鳴を抑えるためだ。

「少将様・・・」

呆然と呟くようなセイの呼びかけに悪戯めいた笑みを浮かべた房良が
手にした蝙蝠で階を指し示した。

「そちらにお邪魔しても宜しいですか? 夜這いなどではありませんから」

「よっ、よばいっ!」

見る見る頬を染めるセイの様子にクスクスと抑えきれぬ笑いを零しながら
房良が階の途中に腰を下ろした。
背中を欄干に預け、半身を振り返らせてセイを見上げる。

「少しね、お話をしたいと思ったのですよ。姫君と」

「何をでございますかっ!」

「しっ。あまり大きな声を出されては、誰かが参ります。姫のご迷惑になる事は
 私の望む所ではありませんよ」

からかわれていると感じて怒りに震えるセイの声音が大きくなったのを房良が嗜めた。
確かにこんな夜更けに自分の所へ男が忍んで来ているなどと
家人に知られようものなら、きっと大きな騒ぎになるだろう。
特に優しい姉がどれほど心を痛める事かと思い至ってセイは俯いた。

「すみません・・・」

虫の音にも紛れそうな小さな声に房良が微笑んだ。
この姫の感情豊かな様子が、胸を温かくする。

「まずは、“少将様”というのはやめてくださいね。まるで内裏で女房殿達に
 呼ばれているような心地がします。“房良”と呼んでください」

「房良様・・・」

「はい」

良く出来ました、というように房良が嬉しげに笑い、それに釣られたように
セイの頬にも笑みが戻った。

「恋を語るに相応しい月夜に無粋な者よ、と呆れられてしまいそうですが、
 伺いたい事が二.三点あります」

よろしいですか? と問いかけてくる房良の表情は変わらずとも、
その瞳の強さがセイの背を伸ばさせた。
セイがこくりと頷くのを待って、房良が言葉を続ける。

「父上と兄上が亡くなられる前に、何か不審な様子はありませんでしたか?」

「特には・・・兄も父も仕事の話などを私達にする事はございませんでしたし。
 ・・・・・・ただ兄は母の実家に何度か赴いておりました。
 私と兄がこちらの母の子では無い事はご存知なのでしょう?」

「ええ」

それはすでに房良も調べてある。
現在この邸に住まいしている一の姫は北の方、つまりは正室の娘であり
セイと兄の祐馬は玄馬と別の姫君の間に生まれた子供達だった。
貴族が複数の妻を持つ事は当然であるこの世界で、それは特別な事では無い。
だがセイ達の母は二人がまだ幼い頃に他界してしまい、それを不憫に感じた
こちらの北の方が二人を手元に引き取り我が子として養育したという事だ。

「母御のご実家といえば、和気の?」

「そうです」

和気家といえば典薬頭を世襲している医薬に長じた家系だ。
そしてその中に件の陰陽師の血も混じっている。
祐馬の行動の意味を探るべきかと房良が考え込んだ。

「そういえば・・・」

セイが何かを思い出したように小さく手を打ち合わせた。

「父が奇妙な事を申しておりました。確か・・・“身に過ぎたモノなど
 薬ではなく毒にしかならぬ。姫には生涯無縁な物だ”と。
 どこぞからの文を庭で燃やしながら私に言い聞かせるように。
 何の事なのか尋ねても答えてはくださらなかったのですけれど。
 それが亡くなる数日前の話でございます」

「ふむ・・・」

蝙蝠を顎先に当てて房良が庭へと眼を向けた。
房良が調べた事からも、どうやら祐馬の死の少し前からこの家について
何者かが執拗に何かを探ろうとしていた痕跡が残されていた。
特にこの二の姫に関して。
けれどまだ札が足りない。
根源ともいえる大切な何かが見えてこない。
やはり良順の調べを待つしかないか、と思考を断ち切って房良が立ち上がった。

「あ・・・菊花・・・」

ふと聞こえた背後からの声に振り返れば、セイが小さな鼻を可愛らしく
クンと鳴らした。
房良の視線に気づき、自分が随分行儀の悪い事をしてしまったと
再び俯いて身体を縮こまらせている。

「ふふっ、姉君の教えゆえでしょうか、薫りに敏感なようだ。確かにこれは
 菊花です。姫には失礼ながら、私は梅花よりもこちらの方が好きなのですよ」

房良の衣服に焚き染められている香が、階から立ち上がった時
いたずらに吹いた夜風に乗ってセイの元まで届いたのだろう。
まだ恥ずかしげに上目遣いでセイが房良を見た。

「でも・・・少し違うような・・・」

「ええ。甘さを抑えて合わせているので、周囲には優美さが足りぬと
 不評なのですけれどね」

けれどクスクスと笑う男にはこの香が合っているとセイには感じられた。
甘く典雅な薫りよりも野山を吹き抜ける風のように清しい薫りが相応しい。

「とても好ましい香だと思いますわ」

飾らないその言葉に一瞬房良の眼が見開かれ、次いでほんのりと耳朶が染まった。
淡い月明かりの中ではセイの眼に映る事は無かったけれど。

「ありがとう・・・」

小さな謝辞の言葉を隠すように房良が手に持った蝙蝠をセイの脇に向けた。

「ところで、それは何ですか?」

「え?」

「先程から気になっていたんですよね」

房良の眼はセイの脇に大人しく座ったままだった小さな白猫に据えられている。

「え、ええっ? 見えるのですか?」

セイの視線が白猫と房良の間を忙しなく行き来する。

「見える・・・というか、ぼんやり光のような気配を感じる、というか」

房良もどう説明すれば良いのかわからない。
元々霊的な物には疎い自分だ。
はっきり見る事など出来ないが、温かな存在がそこにある事はどういう訳か感じ取れる。

「私以外の誰にも見えない子猫がいるのです。兄が一殿に伺った処によると
 私の守護だという事で、悪い存在ではないので気にするな、と」

「気にするな・・・ですか、何だか投げやりですねぇ」

呆れたように、けれど楽しそうに房良が呟いた。
表情の薄い陰陽師を思い出してセイも可笑しそうに微笑む。

「でも兄の親友だった方ですし、信頼して間違いは無いと思っております」

「そうですね・・・」

少し声音の低くなった房良の様子に首を捻るセイに、暫くは周囲の警護を
厳しくする事と御簾内で大人しくしておくようにと言い置いて、
風のような男は闇の中に消えていった。







良順との約束の三日目。
あいにく宿直に当たっていた房良は亥の一刻(午後九時頃)に
普段どおり役目に就いた。

「ふぅ・・・」

宿直の間から見上げた月にセイの面影が重なった。
初めて会った時からどうにも気にかかる姫だったからこそ、
妙な事に係わり合いになるな、と五月蝿い義豊の言葉を押し切って
厄介事と予測しながらも首を突っ込む気になったのだろう。

深窓の姫君とも思えぬ出で立ちで築地塀を乗り越え闇に塗り込められた町へと飛び出す。
夜盗に襲われながら強く唇を噛んで悲鳴を抑えていた気強い瞳が印象的だった。
男達を蹴散らした後で腕に包み込んだ身体の震えが怯えを伝えてきたというのに、
それでも気丈に礼を告げる意地っ張り具合が。

「何だか放っておけないんですよね・・・くくくっ」


――― っっっ?

笑いを噛み殺していた房良の動きが、ぴたりと止まった。
襟足の毛を逆立てるような嫌な気配がする。
ゆるりと周囲を見回しても同じに宿直している仲間達に異変は無い。

――― ふわり

梅花の薫りが鼻先を掠めたような気がしたと同時に房良が立ち上がった。



仕事で残っていた同僚に幸運にも役目を代わって貰い、早足で内裏を出た所に
仏頂面の陰陽師の姿を見つけて苦笑する。
恐らく自分が内裏を出てくる事などお見通しだったのだろう。
この陰陽師の実力を絶賛するばかりの評判を思い出した。

「やぁ、こんな時間までご苦労様ですね」

一見おっとり構えて見えている房良だったが、人の気を視る陰陽師には
内心に隠した焦りは筒抜けとなっている。

「祐馬の方の下手人は先程捕まえて検非違使に引き渡した。
 少し厳しく詮議すれば簡単に全てを吐くだろう」

「そうですか。さすがは良順先生ですね。表稼業の薬師だけじゃなく、
 情報屋の方も一流です」

心持ち早足の房良は牛車を待たせている車溜りへと向かっている。
一も遅れずそれに続いた。

「黒幕は右近衛府の将監、藤原恒秀殿。
 内大臣殿のお身内ながら良き噂を聞かぬ男だ」

右近衛府も左近衛府も役職名は同じだ。
将監とは総司が拝命している少将よりも下にあたり、セイの兄だった祐馬の役職、
左近の将曹よりは上となる。
右近と左近の人間は何かと反目しあう事が常ではあるが、家を巻き込み
セイの父の命を奪うほどの問題が起きたとは報告されていない。
むしろここ最近、両者の関係は良好だったはずだ。

「恒秀殿が・・・? どういう事ですか?」

怪訝そうな房良の問いかけに一が短く息を吐いて足を止めた。



「“桜の姫には触れる事禁ず”。俺の主家たる陰陽師の家系と和気家の当主に
 言い伝えられている言葉だそうだ。身体のどこかに桜の印ある姫には
 人ならぬ力が宿っていると。偉大なる陰陽師が生前に予言し、伝えたと聞いた」

一が足を止めた事で房良の足も止まっている。
周囲に人影が無くなった事を確かめて、何か大事な事をこの男が語ろうと
している事に気づいたからだ。

「ですがそれは何百年昔の事です? そのような昔の予言など」

「あの姫のそばに人に見えぬ力がある。只人には察知できぬソレは彼の陰陽師が
 子孫たる姫の為に残した封印だ。今の世の陰陽師にあれほどの呪は作れぬ」

「それって・・・あの光・・・」

セイに寄り添うようにあった温かな気配に思い至った房良が呟いた。

「アンタ、あれが見えたというのか?」

信じられぬとばかりに一の瞳が見開かれている。
この男でもこんな顔をするのかと、頭の片隅で思いながら房良が頷いた。

「見えたといえばボンヤリと光のようなものが。けれどそれよりも
 何か温かな気配を感じたという方が的確かもしれません」

「そ・・・うか・・・」

なにやら肩を落とし一度唇を噛み締めた男が、気を取り直すように話を戻した。

「あの姫には確かに先祖返りの力が眠っている。彼の陰陽師に匹敵するような力がな。
 それを我が物にしようとする者がいるという事だ。それほどの力、手にすればどうなる?」

「・・・・・・邪魔な政敵は呪殺して、役に立つ者は脅して利用しますか。
 許したくないですね、そういう輩は」

ましてそんな邪な目的の為に、あの姫を利用しようなどと。
房良の中で自分でも驚くほどの怒りが燃え上がった。

同時に気づく。
何故祐馬が、その父が命を奪われたのか。
女を意のままにする為に、最も安易な方法とは。


妻として、手の内に囲ってしまえば良いのだ!!


闇が濃くなるに従って強まっていた焦燥に思い当たった房良が走り出した。
牛車などでは間に合わない。
強引に馬を引き出すとその上に跨った。
一ももう一頭の背に乗り同時に二頭は走り出す。
許可無く都大路で馬を疾駆させるなど、後々厳しい処分が科されるだろうが
そんな事に構っている場合ではない。
房良の頬は厳しく引き締められていた。




                                       後編